眠ろうとして下剤を飲んだら、その下剤の名前がヘノモチンだったのだ。
今の私には、幸せも不幸せもない。
ただ、一日一日が過ぎていく。
私が悶々と生きてきたいわゆる人間界では、幸せも不幸せもただ一つしかない。
人間の世界では、たった一つのことだけが真実のように思えた。
ただ一季節が過ぎる。
私は今年で二十七歳になる。白髪が増えすぎて、ほとんどの人が四十歳を過ぎていると思うほどです。[あとがき
私はこの手記を書いた狂人を直接は知らない。しかし、この手記に登場する、京橋のスタンドバーのマダムと思われる人物を知っている。小柄で色白、目は細くつり上がっていて、鼻は高い。
この手記を書いた人に会えなかったのは、昭和10年頃、軍部が露骨に日本との戦争に向かい始めた頃だった。
しかし、今年の2月、千葉県船橋市に疎開している友人を訪ねた。 その友人には、親戚の結婚の斡旋を頼んでいたので、新鮮な魚介類を買って、身内に食べさせようと、リュックを背負って船橋に行くことにしたのである。 リュックを背負って船橋市へ。
船橋市は泥海に面したかなり大きな街であった。新住民である友人の家は、地元の人に住所を聞いてもなかなか見つからなかった。
そこにいたマダムに見覚えがあったので聞いてみると、10年前に出会った京橋の小さなバーのマダムと全く同じだった。マダムはすぐに私のことがわかったようで、笑い転げ、そしてこういう時の常として、空襲で焼け出されたお互いの経験を、聞かれてもいないのに、自慢げに話したのである。
しかし、あなたは変わっていませんね。 いや、老婆心ながら。 身体は粉々だ。あなたは若い方です。
いや、もちろんそんなことはない。
いや、もちろんそんなことはない。 私にはすでに3人の子供がいます。今日はその子たちのために買い物に行くんです。
久しぶりに会った者同士、いつものように挨拶を交わし、共通の知人の所在をたずねた。私が「ない」と答えると、彼女は奥へ進み、3冊のノートと三葉の写真を持ってきて、私に手渡した。
小説の材料になるかもしれませんよ」と彼女は言った。
彼女は、「それはどうでしょう。 私は人から押し付けられた材料で書けるような人間ではないので、すぐに返そうかと思ったが、写真(三葉の写真の奇妙さについては、すでにあとがきで書いた)に心を奪われ、とりあえずノートを預け、帰りにまたここに寄って、彼女がどの町のどの住所に住んでいるのか聞いてみようと思ったのである。 女子大で教えている女性がどこに住んでいるのか知っているかと聞いた。 私は彼に、その女性、女子大の教師がどこに住んでいるのか知っているかどうか尋ねました。 それはすぐ近所にあった。
その夜、友人と酒を酌み交わし、一晩泊まることにした。
彼女のノートに書かれた話は、一昔前のものではあるが、現代人にとっても、さぞかし興味深いものであろう。
子どもたちへのお土産は、魚介類の干物だけでした。 バックパックを背負って友人宅を後にし、ナイでコーヒーショップに立ち寄りました。
昨日はありがとうございました。ところで、Idは……で自己紹介をしたいのですが。
私はすぐに、By the way, Ive been borrowed this notebook for a while.と言った。
このノートをしばらくお借りしてもいいですか?
はい、お願いします。
このノートをしばらくお借りしてもいいですか?
はい、お願いします。
この人はまだ生きているのか?
知らないんです。10年ほど前、京橋の店にノートと写真の入った小包が送られてきて、送り主は葉ちゃんだと判明したが、小包には葉ちゃんの住所も名前さえもなかった。空襲の時、他のものと一緒に不思議と保存されており、先日初めて全部読みました。……
泣いたんですか?
いや、泣いたというか。…… いや、もう人間はそんなもんじゃない。
10年後、あなたは死んでいるかもしれない。 お礼に送ってくれたんでしょうね。 ちょっと大げさなところもあるけど、あなたもずいぶん苦しんだようですね。もし、これが全部本当で、私が彼の友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたいと思ったかもしれない。
その父親のせいだ。
彼は何気なくそう言った。